定期通院のついでにゲーセン。
ケツイはgdgdだったけど2周目入りはした。最近ダメなときでも2周目入りする率が高まっているのはいい傾向だと思う。2周目の練習は中断しているから2周目の伸びもあまりないけど、まぁそこは落ち着いてからで。


ダライアス(Old Ver.)はいつも簡単ルートをノーミスで。

タイガーヘリを数年ぶりに遊んだ。ここ数年STG中心に遊んでいたのもあって昔より弾がよく見えるようになっていたけど、かわりに牧歌的に感じるようにもなっていた。
定期通院のついでにゲーセン。
ケツイはgdgdだったけど2周目入りはした。最近ダメなときでも2周目入りする率が高まっているのはいい傾向だと思う。2周目の練習は中断しているから2周目の伸びもあまりないけど、まぁそこは落ち着いてからで。
ダライアス(Old Ver.)はいつも簡単ルートをノーミスで。
タイガーヘリを数年ぶりに遊んだ。ここ数年STG中心に遊んでいたのもあって昔より弾がよく見えるようになっていたけど、かわりに牧歌的に感じるようにもなっていた。
2021年8月のサンダーフォースIV(NORMAL)の定期プレイは、ニコ生での配信で、無事ノーミスクリア。今月はSound modなGENESIS1をJPリージョン設定にしてで国内版を遊んだ。
この日、待ちわびていたCD「Technosoft Music Collection – THUNDER FORCE IV」が届いていて、気持ちが高まっていたのもあって、楽しく、集中して遊べたのがよかった。途中シールド剥がれたけどいい緊張の中で楽しめた。
なお、いつものWAVEMASTER音質ならではのクリアさ、そしていままでのサントラには収録されてなかったOmake曲、高西圭氏のスーパーアレンジメドレーが収録されていて、期待以上のアルバムだった。
北米版であるLightening Forceのイラストが入っているのも地味に嬉しい。
土曜は所用ついでにHey。
前回久しぶりにクリア失敗している虫姫さま ケイブ祭りver.1.5(Original) Maxは、この日も初回失敗。このところNintendo Switch版でNormalモードOriginalをやってるのが悪い方向に働いている気が。
1か月前に入ってからちょこちょこ遊んでいたインセクターXは、過去ドはまりしていた箇所を初めて突破して出てきたボスを倒したらクリアだった。通算7プレイ前後。簡単だとは聞いていたなりにスムースにクリアできたとも、手こずったとも言えるかなぁ。
ケツイは3面、4面でミスするダメダメ展開で、1-5もミスが多かったけど、縦穴後のランドマスター地帯で6チケット使い切ってからは粘って二周目入りできた。そこだけはよかった。
ダメなりに二周目入りする率が高まっているのはよい傾向と思いたい。
3連続で失敗していたCasualの真ボスクリアは、4度目の正直でやっとこさ。まずはType-Aからで。
昔からのゲーム好きの多くは”プレイ”と”蒐集”と”うんちく”の3つの袋を持ち、熱心に袋の中に情熱を溜め込んで生きてきたと考えている。だが年を取って仕事や生活などの忙しさや体力の衰えからくる気力の衰えで荷物を軽くせざるを得なくなりがちでもある。ゲームという趣味にどんなに欲張りな人でも捧げられる情熱に上限はあり、それが年とともに減っていくのはある程度仕方ないだろう。これに限らず、年を重ねると若いころと同じようにはできなくなって当たり前なのである。そしてそのときに、どの袋の中身を重点的に残して、どれを軽くしていくかってことが重要なんだと思っている。そして、どう残すかにその人のゲーム観がよくでるとも思っている。
そしてどれを軽くするかを意識的におこなっている人は稀で、無意識のうちにいずれか、またはすべての袋を軽くしている人がほとんどのように見受けられる。ゲーム好きの人のほとんどは最初はゲームプレイに熱中するところから始まっているはずなのに、年を取るとプレイ袋から先に軽くする人が多いように見えるのが長年不思議だった。そして、自分自身が年を重ねてわかったのは、ゲームプレイという袋の中身が他の袋の中身より重く、意識的に抗わないと袋に穴があき、そこから漏れてしまう性質があるということだ。年を取れば取るほどに穴は広がりやすく、パッチの必要性が高くなる感覚を持っている。だからこそ自分はせいいっぱい抗ってプレイ袋を大事にしていきたいと思っている。趣味という個人的な嗜好について、その人がどの袋を重視するかに優劣も貴賤もないと思うが、自分の場合はそんな感じ。
ゲームの多様性を高く評価しない傾向について思うことを適当に。タイトルには”文化”なんて仰々しい言葉を使ってしまったけど、別に深く掘り下げてあるわけでもない(いきなり言い訳から)。
売れたゲームの続編や派生の類は購入するのに、目新しいゲームにはなかなかチャレンジしない人は自分の周りにもいるし、Webでもよく見る。それどころか、売れ線でないゲームを馬鹿にするようなことを言う人すら見かける。これはつまり、ゲームの多様性を良しとしていないということだと自分は認識している。
これは今に始まったことでなく、セガが家庭用ゲーム機を出していたころには既にそうだった。スペースチャンネル5、ジェットセットラジオ、Rez、クレイジータクシー、ぐるぐる温泉、ファンタシースターオンライン、ルーマニア、etcと攻めまくっていたドリームキャストなのに、セガお膝元のセガBBSですら『ハードが売れるためには大作RPGが必要ッ!!!』みたいな意見がとても多く、ソフトのラインナップに多様性があることに価値を見出していないように見える人の多さにうんざりしていた。外部の掲示板ではなおさらだった。多様性があることを良しとする人は本当に少ないって当時嘆いていたのを思い出す。
人気のある商品が元としてあり、それを限られたフォーマットに落とし込むという意味で有名店のカップ麺とファミコンに移植されたアーケードゲームは似ていると思う。
数多くのアーケードゲームがファミコンに移植されたが、移植版の評価は人によってさまざまである。ただ、自分の場合、アーケード版を先にやり込んでいたゲームについてはファミコンのハード性能の低さからくる再現度の低さにがっかりするものがほとんどだった。アーケード版のハード性能が高くなかったが故にあまり見劣りもしなかったギャラクシアンや、当時のマイコン移植版に比べると遙かに出来が良かったゼビウスなどは例外だったが、1942やエグゼド エグゼスのようにアーケード版の良さが出ていないものが多かった印象が強い。
’80年代当時、ファミっ子より上の年代というか、アーケードやマイコンでのゲームをファミコンより先に体験していた人達はゲームをこんな感じのヒエラルキーで捉えていた人が多い印象がある。
(高)
↑ アーケード:至高
│ マイコン:アーケード向きじゃないジャンル(※)では強い
↓ 家庭用ゲーム機:どちらかの代用品
(低)
※ RPG/ADV/SLG等
これはハード性能の差からくる表現力の差が当時はとても大きかったからである。レトロゲーム関係の文章を読む際、背景としてこれを知らないと理解できないことって結構あると思う。開発者インタビューやゲーマーの発言の端々に出ているからだ。
例えば、アーケードじゃなくてマイコンの方だがゲームクリエイターの志倉千代丸さんがサラダの国のトマト姫を語っている時に記者に「ファミコンでやりました」と言われたのに対し「ファミコン版なんて『サラトマ』じゃないから」と返していたのもそういう意識の表れだと思ってる。
アーケード版ドルアーガの塔の楽しさは「謎解き」と「アクション」が両輪となっていると思う。だが、Webを眺めていると「謎解き要素抜きでアクションゲームとして遊んでも面白い」という感じのことを言う人もそれなりに見かける。昔から自分も「ドルアーガは純粋にアクションとして面白い」と言っていたが、これはあくまでゲーセンで謎解きをしていた人達の熱さが土壌にあっての話だったりする。あくまで「自分の場合は」だが。
アーケード版が出た頃は子供すぎて、結果として自力で宝を探し出すことは1つもできなかったのだが、田舎のゲーセンで兄を含む高校生たちが一所懸命試行錯誤していたのを見ていたし、情報も共有していた(※)。兄のグループじゃない人のプレイも眺めて出し方が曖昧な面の解法を暴こうともしていたクソガキでもあったZzz…。そういう体験が自分の場合ドルアーガの塔というゲームを楽しむ際のなんというか根っこ的なものになっているから「純粋にアクションゲームとしても面白い」と言っても、「それだけじゃない魅力」を取り除くことが出来ないのである。