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ゲーム四方山話

ゲーム用途でのFPGAとソフトウェアエミュレーションのごく簡単な比較

掲題の件について2022年末に思ったことをオンラインメモしておく。


まずはAnalogueの互換機やMiSTer FPGA愛好者でFPGAベースの機器は常にソフトウェアエミュレータを使用している場合より上だと勘違いしているのかなって感じる人をちょい見かけるので書いたTweet(最下段)を。

実際には一長一短だしむしろ歴史の長いソフトウェアエミュレーションの方が現状強い場面は多いよなと(そしてtypoしているアレ)。

ぱっと思いつくだけでも現状ソフトウェアエミュレーションの方がこの辺アドバンテージがある。

  • 対応機種の多さ
  • 一機種あたりの対応タイトルの多さ(再現度の高いソフトの多さ)
  • ステートセーブ・ロードの対応度
  • メッシュを半透明にするなどの映像加工の豊富さ
  • (ラグはともかくとして)安価なハードで実現可能

もちろん、探せばもっとあるだろう。

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ゲーム四方山話

ゲーム好きの3つの袋

昔からのゲーム好きの多くは”プレイ”と”蒐集”と”うんちく”の3つの袋を持ち、熱心に袋の中に情熱を溜め込んで生きてきたと考えている。だが年を取って仕事や生活などの忙しさや体力の衰えからくる気力の衰えで荷物を軽くせざるを得なくなりがちでもある。ゲームという趣味にどんなに欲張りな人でも捧げられる情熱に上限はあり、それが年とともに減っていくのはある程度仕方ないだろう。これに限らず、年を重ねると若いころと同じようにはできなくなって当たり前なのである。そしてそのときに、どの袋の中身を重点的に残して、どれを軽くしていくかってことが重要なんだと思っている。そして、どう残すかにその人のゲーム観がよくでるとも思っている。

そしてどれを軽くするかを意識的におこなっている人は稀で、無意識のうちにいずれか、またはすべての袋を軽くしている人がほとんどのように見受けられる。ゲーム好きの人のほとんどは最初はゲームプレイに熱中するところから始まっているはずなのに、年を取るとプレイ袋から先に軽くする人が多いように見えるのが長年不思議だった。そして、自分自身が年を重ねてわかったのは、ゲームプレイという袋の中身が他の袋の中身より重く、意識的に抗わないと袋に穴があき、そこから漏れてしまう性質があるということだ。年を取れば取るほどに穴は広がりやすく、パッチの必要性が高くなる感覚を持っている。だからこそ自分はせいいっぱい抗ってプレイ袋を大事にしていきたいと思っている。趣味という個人的な嗜好について、その人がどの袋を重視するかに優劣も貴賤もないと思うが、自分の場合はそんな感じ。

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ゲーム雑感(家ゲー(セガハード)) ゲーム四方山話

ゲームの多様性を良しとする文化はあるのか

ゲームの多様性を高く評価しない傾向について思うことを適当に。タイトルには”文化”なんて仰々しい言葉を使ってしまったけど、別に深く掘り下げてあるわけでもない(いきなり言い訳から)。


売れたゲームの続編や派生の類は購入するのに、目新しいゲームにはなかなかチャレンジしない人は自分の周りにもいるし、Webでもよく見る。それどころか、売れ線でないゲームを馬鹿にするようなことを言う人すら見かける。これはつまり、ゲームの多様性を良しとしていないということだと自分は認識している。


これは今に始まったことでなく、セガが家庭用ゲーム機を出していたころには既にそうだった。スペースチャンネル5、ジェットセットラジオ、Rez、クレイジータクシー、ぐるぐる温泉、ファンタシースターオンライン、ルーマニア、etcと攻めまくっていたドリームキャストなのに、セガお膝元のセガBBSですら『ハードが売れるためには大作RPGが必要ッ!!!』みたいな意見がとても多く、ソフトのラインナップに多様性があることに価値を見出していないように見える人の多さにうんざりしていた。外部の掲示板ではなおさらだった。多様性があることを良しとする人は本当に少ないって当時嘆いていたのを思い出す。

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ゲーム四方山話

有名店のカップ麺とファミコンに移植されたアーケードゲームの類似性

人気のある商品が元としてあり、それを限られたフォーマットに落とし込むという意味で有名店のカップ麺とファミコンに移植されたアーケードゲームは似ていると思う。

数多くのアーケードゲームがファミコンに移植されたが、移植版の評価は人によってさまざまである。ただ、自分の場合、アーケード版を先にやり込んでいたゲームについてはファミコンのハード性能の低さからくる再現度の低さにがっかりするものがほとんどだった。アーケード版のハード性能が高くなかったが故にあまり見劣りもしなかったギャラクシアンや、当時のマイコン移植版に比べると遙かに出来が良かったゼビウスなどは例外だったが、1942やエグゼド エグゼスのようにアーケード版の良さが出ていないものが多かった印象が強い。

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ゲーム四方山話

クラシックゲーミングとレトロゲーミングの違い

これについて、2016年に “レトロゲームが楽しいのは懐古の思いでしかないのか” という記事を書いているのだが、当時と認識が変わっている部分もあるので記録しておく。

まず、”レトロゲーム”ではなく”レトロゲーミング”と述べている理由を書く。”レトロゲーム”という言葉は多くの場合、個々のゲームの属性を示すのだが、何をもって”レトロ(=懐古)”とするかは個人の感じ方によるものでしかなく、ゲームそのものが持つものではないので、そこにはっきりとした齟齬がある。だが、”レトロゲーミング”という行動様式を示す言葉ではその問題はなく、以下のような文章ではこちらを使う方が適切に思える。

例えば小学6年生が小1のときに遊んだっきりだったプレイステーション4のゲームを懐かしんで遊ぶのは、彼の人生のほぼ半分を遡るだけの間隔があり、懐古の想いがあるのだから間違いなく”レトロゲーミング”なのだが、それを”小学生にとってはプレステ4もレトロゲーム”と書くと、話の焦点がどこにあるかも本質も理解できずに横道の話しかできないおじさんたちが大量に発生しがちな問題があるのだ。あとは以降の本題で。

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ゲーム四方山話

「誰が作ったか」の実績は自分に合ったゲームを見つけるための最大の近道なのか

以下の文書は2018年10月に書いた文書とセットなのだが、草稿フォルダに埋もれたまま2年半経って見直してみると、状況が予想していたより早く進んでいて面白いと思ったのでこのタイミングで放出しておく。


将棋と比較しての自分なりのビデオゲームの楽しみ方の本筋」で『「誰が作ったか」の実績は今までは自分に合ったゲームを見つけるための最大の近道だった』と書いたが、過去形にしているのは崩れつつあると思っているからだ。

まず、メーカーやらクリエイターやらの実績を重視しすぎると、それに囚われて新たなゲームに出会う機会を失いがちだという弱点がある。なので将来的には自分が遊んだゲームの評価と選定ジャンルの傾向をビッグデータとマッチングしてもらうのが、自分に合うゲームを見つける最大の近道になると予測している。そして、その時、誰が作ったかというのはエンドユーザにとっては今より薄い情報になるのではないかとも思っている。

もっとも、自分が”現役”である間にそこまでは進まないとも思っているので、さらなる未来の話ってことで。


と、ここまでが2018年10月に書いた内容である。そして、2021年6月の時点では、Steamのストアはかなりレベルが高いところまで進んでいて、好きなジャンルのゲームについては使えるところまでいってるとさえ思うようになった。ただ、たとえばふだんSTGばかり遊んでいる人にこそ刺さる別ジャンルのゲームとか、そういうところまではまだ進んでいないので完成形とまでは言えないだろう。今後のさらなる進歩に期待したいものである。たとえそれがメインの選び方になるところまでいかなかったとしても、1本でもお勧めで自分に刺さるソフトに出会えたなら、十分に価値があったと言えるだろうし、ここまできたら使いようの問題だとも思う。全部が全部同じ基準で選ぶ必要などないのだ

なお、PlayStation Storeの方はSteamと比べると2021年時点では数段落ちる状態なので、そのイメージでこの文章を読んでも的外れにしか見えないかもしれないが、それも仕方ないだろう。

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ゲーム雑感・思い出話 ゲーム四方山話

’80年代ゲーセンは不良のたまり場だったのか

Twitter見ていると定期的に流れてくる「80年代のゲーセンは不良のたまり場でカツアゲが横行していた」というアレだけど、この手の印象は、けっきょくその人が過ごした環境に大きく依存するのだと思っている。

このトピックについて当時の環境を考えると、以下の3つに分けられる。

1.すべてのゲーセンが不良のたまり場ではなかった地域
2.不良のたまり場とそうでないゲーセンが混在していた地域
3.すべてのゲーセンが不良のたまり場だった地域

自分の場合いきつけにしていたのは地域で一番の進学校(※1)近くのゲーセンと地域で一番のショッピングモール(※2)内のゲームコーナーであって、両方とも不良のたまり場ではなかったし、自分だけではなく他の人に対してもカツアゲは見たことがなかった。つまり、上記1番な環境で育ったわけだが、当時大人からはさんざんゲーセンは不良のたまり場だと言われていたし、Webやら別の地域で育ったゲーム仲間からそう伝え聞くことも多かったから、余所ではそういうところもあったのだというは理解している。
※1 その進学校に不良はほとんどいなかった
※2 当時そういう呼び方はしていなかったが

だが、上記3番の環境で育った人たちは、当時は日本全国どこでもゲーセンは不良のたまり場だったという文脈で語りがちだし、例外があったと言ってもそれを否定することしかできない人が多くてアレだなと。その人が否定しようがしまいがゲーセンが不良のたまり場ではなかった地域があった事実は変わらないし、人間の想像力はそんなに高くないことも知っているので仕方ないとも思うのだが、この手の文脈がTLに流れてくる度にアレな思いをしてなくもなかったりするアレ。

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将棋と比較しての自分なりのビデオゲームの楽しみ方の本筋

自分はビデオゲームの他に長年本将棋も趣味としていたりする。そして将棋には実際に将棋を指す以外にも以下のようなうんちくがあったりする。

・本将棋の成り立ち(チャトランガから大将棋、中将棋などへの変移など)
・家元制度、大橋家、伊藤家などについての歴史
・日本将棋連盟の歴史
・駒の素材(最上級は柘植(つげ))
・駒の彫り方の違い(盛り上げ、彫り埋め、彫り、書き)
・駒の書体の違い(錦旗、巻菱湖、水無瀬など)
・駒の木地の違い(虎斑、孔雀杢など)
・形式張った駒の並べ方(大橋流、伊藤流)
・盤の素材(最上級は榧(かや))
・盤の線の引き方(高級品は太刀盛り)
・盤の足の形はクチナシの花(口無しに通じて周りが口を出すなという通説)
・盤裏の音受けの通称「血溜まり」について
・その他プロ棋戦の歴史やプロ棋士のエピソード類

ずらずら書いたが、ちょっと将棋に興味があれば、この見出し程度のことならざっくり知っている人が多いと思う。だが、これらに対してより詳しくなっても将棋は上手くならないし、将棋を指すこと自体が面白くなるわけでもない。あくまで周辺要素に詳しくなり、知的好奇心を満たすだけである。指すモチベーションが多少は上がる人もいるかもしれないが。

だから自分の場合、上記項目について、深く詳しくなろうとは思わなく、ほどほどを心がけている。いきつくところまでいって、柘植や榧の種類や生態に詳しくなったところで将棋の本質とは関係なく思えるからだ。これらに深くのめり込む時間があるなら、序盤や寄せの手筋の勉強や、詰め将棋、COMとのトレーニングなど、指し将棋に役立つことに時間を割り当てる方が有意義に感じる。

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1980年代アーケードゲーム復刻のタイムリミット (長文)

自分は4年ちょっと前に「80年代アーケードゲームの復刻が”ほぼ完全”といえるレベルで出来るリミットはあと10年だと思う。当時のゲーム制作技術に精通した技術者の確保、基板の寿命、資料の消失、正確性を担保できる人間、あと需要もろもろを考えるとそんな長くない」って友人と話していたりする。つまり、ゲーマーにとって魅力ある商品としてのライフサイクルは限界が近づいていると予測していたということである。

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レトロゲームブーム いきすぎたプレミアムの終りに

前編である「プレミアソフトを買うことを批判する人たちに対する違和感」の続きを”ファンタシースター 千年紀の終りに”風のタイトルで。end of the millenniumとend of the premiumをかけているとかどうでもいいと思うので本題に入る。

前編ではプレミアソフトを買う人に対して否定的なことを言うことに対する違和感について書いた。ゲーマーが遊びたいという気持ちで売買した結果としての高額取引自体に何か問題があるとは思えないのだが、インターネットの普及とオークションサイトやフリマアプリ経由での個人取引が増えた結果として、せどりが広範囲にしやすくなったことがさらなるプレミア化を推し進め、その結果ゆがみが生じたようだ。

プレミアソフトは特に注目されるため、ゲームを遊びたい人だけでなく”せどらー”にも頻繁に売買され、過度のプレミアがつくこととなる。ここまではまだ経済原則にのっているので、個人的な感情を置いとけば特に問題とは思わないのだが、過度にプレミアムがついた結果、プレミアソフトの海賊版がオークションやフリマアプリに出品されるようになってしまったのである。